『人という字は!』中国四千年の歴史と対峙する。

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人という字は!

 

『人』と言う字は、それぞれが支えあう形でできている。

人間とは、お互いに支えあわなければならぬものである。

 

だ、そうである。

だとすれば、

『入る』と言う字も、お互いが支えあう形でできている。

 

何にでも入るときは、支えあいながら入らねばならぬのである。

って、そうなのか?

支えあいながら入るってなんだ?

 

泥酔カップルがいかがわしいホテルに入ったりするときには支えあっている場合が多いが。

 

 

と思ったら、『人』という字は、支えあってできているというのは、でっちあげで本当は人間を横から見た形を甲骨文字であらわしたものが、

『人』

という感じであるそうな。

 

 

この最後のやつ人を横から見た図か?

人が、土下座しているところを横から見た感じかな?

 

 

『愛』は真心、『恋』は下心

 

 

『愛』は真心、『恋』は下心などともいう。

 

これは漢字の『心』の部分が、字のどのあたりにあるのかで上手く愛と恋を言い表したのだろう。

 

そういえば『丁寧』の『寧』は、〝やすらか〟だったり、〝おだやか〟とかいう意味であり、
『心』の部分も真ん中あたりにあり

 

「たしかに真心だなあ」

 

と思ったのもつかの間、

 

『恋』が下心なら、

 

『志』も下心か?

 

『忘』も下心か?

 

『忍』も下心か?

 

『忌』も下心か?

 

ということで恋は下心説は、説立証ならずである。

漢字にとって、心の位置は、あんまり関係ないのではないだろうか?

しらんが。

 

 

木に立って見る

 

『親』という字は、子供のことを、遠巻きに、

〝木に立って見る〟

から、『親』という感じが作られたなどともいうが、なんで木に立たねばならんのか?

 

心配ならもう少し近寄ってみればいいのに、わざわざ木によじ登ってみるだなんて危ないでしょう。

 

『あんまり近くでやいのやいの言わずに、心配ではあるけれども、あくまで遠巻きに木に立ってでも見守りたいのが親心』

 

と、私は人の親になったことがないが、そういう気持ちでいることが親として正しい姿勢であるような気はするものの、だったら

 

『新』という字は、木に立って斤ってなんだそりゃ?

 

山賊か?

山賊は新しいのか?

 

で調べてみると、『親』という感じのなりたちは、木に立って見るではないそうで。

 

 

まず『立』は、そもそも象形文字で

 

〝取っ手のついた針〟

 

のことだそうで、その針を林に投げてそれに刺さった木材で位牌を作った。

なので、親のヘンである木に立つという部分は、位牌のことだそうである。

 

その位牌を斤(斧)で新たに作り出すから『新』。

 

 

出来上がった、その位牌を見る。

 

子供が親の位牌を見るというところから『親』という感じがなりたったそうで、
見ているのは親が子を心配そうに見ているのではなくて、子が親のことを位牌をみて思い出しながら見ている図であるという。

なんか、木に立って見るの方がいいなあと思った上、本日は、ただ漢字にイチャモンつけようと思って書き進めたところ、意外にもアカデミックなこと出来上がりになってしまったことを、反省しているところである。

 

中国四千年の歴史に勝てず、どうもすみませんでした。

 

 

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つりばんど 岡村

「健やかなるときも、病めるときもアホなことだけを書くことを誓いますか?」 はい、誓います。 1974年生まれ。愛知県出身、紆余曲折の末、新潟県在住。 詳細プロフィールはこちら

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